「老化細胞」という言葉をご存知ですか。
或いは、「細胞老化」という表現。
実は、皆さんにとって、とても身近な存在です。
紫外線を浴びる。タバコを吸う。お酒を飲む。コロナ感染の重症化。抗がん剤や放射線の影響。震災や戦争の体験。
これらの結果、皆さんの肌に、血管に、肝臓に、腎臓に、肺に、「老化細胞」は存在します。
そして、皆さんが気付かないうちに、身体にSASP(サスプ)という悪影響が出ていることも。
その正体は何なのか。治療法はあるのか。深堀りしてみましょう。
世界で最初に「老化細胞」の存在を突き止めたのは、レオナード・ヘイフリック博士でした。
1961年に公開された原著論文は此方(pubmed検索でタイトルのみ判明)。[1]
この研究の以前は、幹細胞などの様に、通常の細胞も無限に細胞分裂できると考えられていました。
生物個体には寿命があるのに、細胞そのものには寿命がない、と考えられていたのです。
ヘイフリック博士の最大の功績は、個体の老化と、細胞の老化は別とし、『細胞老化』の概念を確立したことと考えます。
最先端医療である幹細胞治療でもお馴染みですが、ヘイフリック博士も同様に、研究室で皮膚の細胞を培養をしていました。
培養室という理想的な環境では、細胞は再現性をもって規則通りに細胞分裂し、増殖します。
それらの細胞がスペースを埋め尽くす前に、一部の細胞を別の場所に移すことを、「代を継ぐ」という意味で「継代(ケイダイ)」と呼びます。
この継代の最中に、気付いた。
どうも、「継代」の回数が40回を超えたあたりから、細胞の様子が変だ、と。
・細胞の増殖スピードが落ちている
・細胞の形、見た目の印象がだらしなく、なってきている
と。
継代が45回目までは、細胞の生存率は100%。
しかしながら、回を重ねるごとに、その生存率は下がる一方。
そして、63回目の細胞分裂で、ついに、全ての細胞が死滅した。
医学の常識がひっくり返った瞬間だ。
現在、この細胞老化のなれのはて、細胞分裂の限界のことを、博士の名前にちなみ、ヘイフリック限界(Hayflick Limit)と呼びます。
ヘイフリック博士は、細胞の生涯を三段階に分けて整理しました。
フェーズ1 | 実験開始から細胞増殖が安定化するまで |
フェーズ2 | 細胞増殖の安定期 |
フェーズ3 | 細胞分裂が停止し始める45~63回目まで |
そして、この実験モデルとなった細胞株の系統「WI-38細胞」は世界中の研究室に行き渡ります。
「WI-38細胞」という共通基盤を手にした研究者たちは、世界中で膨大な数の「細胞老化」に関する仮説検証が繰り返されることになるのです。
(※WIは米国東部フィラデルフィアにあるウィンスター研究所:The Whinstar Institute of Anatomy and Biologyの頭文字を取ったもの。その38番目の系統という意味。日本人由来でWI-38と同じ特徴を持つ細胞株も存在し、TIG-1細胞として知られています。)
ヘイフリック限界という事象の発見以降、
・細胞老化により何が変わるのか
・細胞分裂のプロセスを規定しているものは何なのか
・分裂回数や分裂の限界を決めるのは何か
が疑問となります。約30年の時を経て、次の転機が訪れます。
1985年、キャロル・グライダー博士らによる「テロメア短縮」の発見です。原著論文は此方。[2]
後に、グライダー博士はブラックバーン博士らと共に、ノーベル生理学・医学賞を受賞します。
テロメアの存在自体は1930年代にその存在を知られていたのですが、その存在意義は不明でした。
今回、細胞分裂の度にテロメアが短くなること、そして、そのテロメアが、遺伝情報の保護キャップみたいな役割を果たしていることが判明します。
・テロメアが十分長い → 細胞分裂の際に、遺伝情報が正しく伝わる
・テロメアが既に短い → 細胞分裂の際に、遺伝情報のコピーにエラーが生じる
よく使われる例えは、スニーカーのシューレースの先端、プラスチック部分の保護剤の様なもの、です。
プラスチック部分が破損すると、守っているシューレースもほつれます。
同様に、テロメア短縮が進むと、守っているDNA二重らせん構造もほつれる、というイメージです。
では、このテロメアを延長することが出来たならば。
ヘイフリック限界を突破して、その細胞は不老不死を獲得できるのではないか。
世界が色めき立つには十分すぎる仮説でした。
テロメアを延長するテロメラーゼの発見により、仮説が実際に検証されます。
結果は、真逆。
ヘイフリック限界を突破した細胞は“がん細胞”と化し、細胞の不老不死は叶ったものの、個体の不老不死は叶いませんでした。
現在、テロメアの研究は老化領域よりも寧ろ、がん領域で注目されています。
国立がん研究センターでも、テロメラーゼによる新しい抗がん剤開発の情報が公開されています。
ここまでが、in vitro(インビトロ)と呼ばれる、試験管内(=理想的な環境)での実験から得られた知見です。
生体内を意味する、in vivo(インビボ)では、全く別の事実が判明しています。
なんと、私たちの身体の中には、ヘイフリック限界を迎える前の、十分にテロメア長が残存する、老化細胞が多数存在しているという事実です。
やはり、科学は面白い。
大阪大学微生物病研究所でも、新型コロナ感染症を来した肺に老化細胞が存在することを公開しています。原著論文は此方。[3]
コロナ感染で、肺組織に存在する一つ一つの細胞が、老化細胞と化している事象が、考察と共に記載されています。
他、細胞老化はsenescence(セネッセンス)と英訳されますが、
・抗がん剤による細胞老化 → oncogene-induced senescence (google検索で5,080,000件ヒット)
・放射線による細胞老化 → radiation induced senescence (google検索で3,130,000件ヒット)
と、科学者たちの間では当然のことと認識されています。
なぜ、細胞は老化細胞になるのでしょう。
ヘイフリック限界とは、別の見方をすれば、細胞自身が“がん化”することを阻止する、防衛機能とも考えられます。
細胞自身が、老化細胞となり機能停止することで、これ以上細胞分裂をした際に異常な細胞を生み出さない仕組みです。
この様に考えるならば。
あまりにも甚大なダメージを受け、DNAに刻まれた遺伝情報が損傷を来した場合。
DNA損傷を修復して細胞分裂したとしても、異常な細胞が生み出される可能性が高くなります。
ならばいっそ、ヘイフリック限界前だとしても、その細胞が老化細胞になった方が、生命個体全体を守るには適しています。
これが、ヘイフリック限界前に起こる、早期細胞老化と呼ばれる状態です。
・premature senescence(プレマチュア・セネッセンス) → テロメア残存がある → ヘイフリック限界“前”、別理由が原因
・replicative senescence(レプリカティブ・セネッセンス) → テロメア残存がない → ヘイフリック限界、“分裂”回数が原因
前者は、ヘイフリック限界前に因み、プレマチュア(未成熟の)という単語が。
後者は複製品という意味で日常会話でもお馴染みの、レプリカ(分裂、複製)という単語が使用されています。
この様に、細胞老化は大きく、2種類に分類されるのです。
このpremature senescence(プレマチュア・セネッセンス)は、冒頭で述べた通り、日常生活でも引き起こされます。
私たちの身体の中には、日々、細胞老化が進み、一部の細胞が老化細胞となります。
そして、それらは、
・アポトーシス(細胞の自殺)
・免疫細胞による貪食(他細胞による除去)
・そのまま居残る
・(老化細胞になれずに細胞分裂をしてしまい)がん細胞になる
ことに。
細胞を主人公に見てみると、最後は、がん化したり、そのまま居残ってSASP(サスプ)という症候群を発症したりします。
それを回避するには、老化細胞になった段階で、自ら身を引くアポトーシス、或いは、周囲の進言を受け入れて別細胞に譲る、といった所でしょうか。
まるで、人間ドラマの様ですね。
引用論文は此方
[1] Exp Cell Res. 1961 Dec;25:585-621.doi: 10.1016/0014-4827(61)90192-6.
[2] Cell. 1985 Dec;43(2 Pt 1):405-13.doi: 10.1016/0092-8674(85)90170-9.
[3] Nature Aging. 2022 Jan;25